自分の手で摘み取った取った新茶葉でつくる茶飯とお茶を楽しむという、なんとも贅沢な茶会に参加させていただいたいた。もちろん茶摘みは初めての体験で、新芽は驚くほど柔らかくほとんど抵抗もなく摘み取れる。
茶と飯はまさに日常の茶飯事なのだが、自分で摘んだ新茶での「茶飯」と「茶」は、そうそあることではない。
茶飯をいただきながら、なぜか久隅守景の「納涼図屏風」が思い浮かんだ。屏風に描かれた一家の、あのくつろぎはおそらく日常の茶飯事なのであろう。つねづねあこがれているくつろぎの恰好である。
明治期に来日した女性旅行家イライザ・シッドモアは、『日の輝く春の朝、大人は男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し・・・・漁師のむすめたちが脛を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれをあねさんかぶりにし、背中に籠しょっている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうにころげ回る。婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。
こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。』と、鎌倉の海岸での光景を記述している。
このようなくつろぎは、実はできそうでなかなかできないのだが、幾枚かの新茶が「浮き浮きとするくつろぎ」を与えてくれた。
写真に撮ったのはバッタ(と思う)の子供である。新芽の柔らかな絨毯でくつろいでいるように思えた。